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病院概要

当院の歴史

1908年(明治41年)

明治41年6月、初代山内要は28歳の若さにして岐阜市神室町に約600坪の蓮田二反を埋め立てて病院を建築、岐阜市胃腸病院を開設した。
岐阜市初の民間病院の誕生である。当時の岐阜市中心地は、伊奈波神社付近一帯であった。そこからかなり離れた神室町は、柳ヶ瀬ブルースで有名な柳ヶ瀬より2本南の通りで、新開地であった。
木造3階建築の明治村を思わせる趣ある建物は、要が父親の勇吉と考案したものであり、1階が診療部門、2階が入院室になっており入院室は一等から三等と分かれていた。敷地内には自宅も併設していた。当時、岐阜市役所と間違えて訪れる方も沢山いたようである。写真をみても明治村にある役場そのもので、人々が間違えたのも納得である。
また同年7月31日、明治38年にノーベル賞を受賞したロベルト・コッホ博士が要の恩師である北里紫三郎博士、志賀潔博士と共に来岐。
「日本の細菌学の父」と言われた北里博士はコッホ博士に師事した一人で、自分の研究所に「コッホ神社」を造ったほど傾倒していたそうである。
北里博士の伝染病研究所に勤務していた要は、岐阜市金華山麓萬松館で行われてたコッホ博士の演説会に参加している。

1908年(明治41年)

1912~1925年(大正時代)

当時の入院患者、ベット数がどれほどであったか定かではないが、私が医師になってから通院していた老夫婦によると、幼少時代に入試していたことがあり、母親と鍋釜を持参して入院していたということで、入院患者さまは自炊の人もいたようである。
当時の現金収入帳が残っているが、それによると外来患者数は一日35人~70人くらいで、一人当たり1円何銭~2円くらいを支払っていたようなので、一日の収入が60~120円である。
大正時代の1円が現在のどれほどの金額に相当するのか想像がつかないが、月収2,000円ぐらいではなかったかと考えられる。
また当時の写真から、看護婦さんは4名が勤務していたようであるが、おそらく住み込みで働いていたものと思われる。

1912~1925年(大正時代)

1926~1944年(昭和元年~昭和19年)

昭和になり、要の娘婿の鈴木明博士(名古屋大学卒 勝沼内科)が副院長として勤務していた。
当時としては大変珍しいレントゲン機械が置かれており、明博士が撮影をしていた。
現在の胃透視の放射線装置ではなく、胸部、腹部などの一般撮影の装置であった。
当時の病室は一等室、二等室、三等室と分かれており、広さと景観(部屋からの庭の眺め)で料金が設定されていた。畳の病室に入院患者さまは貸し布団を敷いて入院していたそうである。
しかし入院といっても、遠方などで通院するのが難しい患者さまが宿代代わりに滞在するという感覚だったようで、医師の回診もあり、看護婦さんが部屋に薬はとどけていたが、比較的元気な患者様は立地に恵まれていたこともあり柳ヶ瀬へ繰り出し映画を観たり、楽しみながら病養していた方もあったようである。
また、米原や滋賀、飛騨地方などの遠方から遥々やって来て最寄りの旅館に滞在しながら通院していた患者さまも沢山おられたようである。
今でこそ交通機関が発達しているが、当時通勤していた看護婦さんたちが仲良くなった患者さまのところへ遊びに行ったものの、あまりの遠さに驚いたそうである。
それ程の距離からも通院していただけたのも大変ありがたい話である。

1926~1944年(昭和元年~昭和19年)

1947~1954年(昭和22年~昭和29年)

病院焼失から2年後の昭和22年、徹明町1丁目に病院を再建し、「山内胃腸病院」として診療を開始した。徹明通り側には市内電車が通っていた関係もあり病院再建の折りには通りに面した方が正面玄関となった。

その頃は家族が手伝いをしており、要の三女である露子が診療の補助から事務をしていたようである。また、二女の喜代子も薬局業務を手伝いに来ていた。その2、3年後に就職した看護婦さんの話によると、朝の7時前から多くの患者さまが来ており、夕方6時くらいまでかかって診療したそうである。

戦争から戻った正通は、戦時中も衛生兵として行動を共にしていた石原保衛氏が診療補助についており、患者さまの予診から注射等を行っていた。また、京都大学出身の西田先生、後の柴田内科(岐阜市光明町)院長の柴田先生も勤務していただいていた。

昭和28年頃には病院北側に建物を増築して病室を造り、「北病棟」と呼ばれていた。

1947~1954年(昭和22年~昭和29年)

1960~1964年(昭和35年~昭和39年)

昭和35年9月、社団医療法人かなめ会が設立され、理事長に山内正通が就任した。

昭和38年には再び新しく病室を建築し、病床も40床から115床となり大きく前進した年である。
しかし、それを見守り終えたかのように初代 要は昭和38年3月3日、83歳で逝去した。

30年代後半にはX線テレビ透視装置が日本でも完成し、昭和39年2月、日立レントゲン社から東海地方での第1号機として当院に納入された。
価格は4,000万円程度であったようで、当時としては大変画期的なことで、県内外から多数の見学者があった。

来院患者数は一日200人、医師3名で診察を行っていた。また、午前中で約40人の胃X線検査があったが、現在のように撮影枚数は多くなく、保険で許されたフィルム枚数は4~5枚くらいであったので、可能な人数であったと思われる。それにしてもかなりの人数でハードであったと思う。

1960~1964年(昭和35年~昭和39年)

1988年(昭和63年)

建築中の新病院も昭和63年4月に完成の運びとなった。
5月の連休を利用して引越しをし、幸いにして一日も病院を休むことなく無事に移転することができた。

5月6日、晴れて新病院を開院した。この新築移転にあたり、当時一般企業に取り入れられたCI(Corporate Identiy)の確立を電通を通じて行った。
デザイナーは当時アサヒビールや協和発酵といった大手のマークをデザインした方で、700万円の費用を投入した。
現在はどこの病院でも盛んに行われているHospital Identiyの先駆けであった。
これにより、山内胃腸病院から「山内ホスピタル」と改名し、ロゴマークなどの新設も行ない、スローガンは「Healthy & Happy」とした。
職員のユニホームから封筒、便せん、病院の書類なども全て一新し、来る21世紀に相応しい環境が整った。

この新築移転を機に、祖父 要と父 正通の念願であった消化器病をトータルで治療できるように外科部門が新設された。
それにあたり、岐阜大学医学部2外科教授を退官された坂田一記先生(平成18年11月25日逝去)をお迎えし、その下に外科医3名での新体制となった。

外科部門は消化器がんの手術が主となったが、当時まだ始まったばかりの腹腔鏡による手術にも積極的に取り組んでいただいた。

1988年(昭和63年)

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社団医療法人かなめ会 山内ホスピタル

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